ZSの会
リトアニアのヴェイセイエにおける 
R.ドブジンスキ(左)と L.C.ザレスキ−ザメンホフ(右)

ワルシャワのザメンホフ通りにおける
L.C.ザレスキ−ザメンホフ

ザメンホフ通り正誤表

このサイトにアクセスしていただき、有難うございます。ここには、『ザメンホフ通り』の訳文全部を約半年にわたって掲げてきて、13000人近くのアクセスがありました。しかし2005年1月15日に原書房から訳書が刊行されましたので、2月10日にごく1部分を残して閉じさせていただきます。この内容見本をご覧になって、ご興味がありましたら、書店や図書館で本を見てください。大型書店では、西洋史のコーナーに置かれているようです。
書物の表題と内容の要点は次の通りです。

● L.C.ザレスキ=ザメンホフ  / ロマン・ドブジンスキ著、
青山 徹・小林 司・中村正美監訳『ザメンホフ通り――エス
ペラントとホロコースト』原書房、454p.、(写真45葉)、2005年、
2800円(本体価格)、ISBN4-562-03861-6

第二次世界大戦中に、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別の頂点とも言うべきワルシャワ・ゲットーからガス室へ送られる寸前に脱出して、奇跡的に生還した著者が、過酷な体験を詳しく述べて、世界的建築家となった現在の視点から「人類の希望」へ渡る架け橋をどのように構築すべきか、を考察した本。国際共通語を創ったザメンホフの孫が、本州・四国架橋のコンサルタントや北海油田のプラットホーム建設者として活躍。日本全国に散在する67人のエスペランティストがメールだけで連絡を取りながら、超短期間に訳了した名著。人工語でも、ここまで表現できることに驚かされる。
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同時に、次の2冊も発行されましたので、こちらも書店で御覧ください。

● 小林  司著『ザメンホフ――世界共通語を創ったユダヤ人医師の
物語』原書房、298p.、(写真50葉)、2005年、1800円(本体価格)、ISBN4-562-03862-
4

KOBAYASHI Tsukasa: Zamenhof――Biografio de juda Kuracisto kiu
Kreis Internacian Lingvon. Hara-shobo Eldonejo (Tokio), p.454, 2005,
ISBN4-562-03862-4

周囲を取り囲む列強から絶え間なく侵略されるポーランドにあって、二重の差別に苦しむユダヤ人を見て、諸民族の友愛と正義のために、国際共通語と国際橋渡し宗教を創ったたユダヤ人眼科医は、世界平和のために一生を捧げた。宗教間の憎みあいをなくすために、全くユニークな解決法を見つけた、彼の早すぎた理想は、ヨーロッパ連合その他で次第に実現されていく。「民族国家」を越えて、自分を人類の一員だと見なす「人類人主義」は、21世紀の思想に他ならない。言語と思想界の巨人の歩みを、余すところなく解明した名著。

●  和田登著 高田勲画『武器では地球を救えない ーーー エスペラント語
を創ったザメンホフの物語』文渓堂 190ページ 2005年 1300円(本体価格)、
 ISBN4-89423-427-0

 この本は、『思い出のアン』『キムの十字架』などで知られる和田登さんが、小学生高学年から中学生を対象にして書いたザメンホフの伝記である。
 ユダヤ人であることで様々な社会的制約を受けて育ったザメンホフが、少年時代に早くも国際語を創ったこと、大学ではシオニズム運動に参加したこと、医者となってまた国際語への情熱を取り戻し、エスペラント会を完成させたこと、などが中心となった物語。幼くして死んだ妹、両親の苦悩、友人関係、そして恋人クララとの出会いなど、苦しみの中で成長していくザメンホフが、感動をよぶ。児童向けの図書である
が、大人にも面白く、親子で読んでほしい。

<3冊の本の紹介HP>
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ZSの会(邦訳名「ザメンホフ通り」を翻訳する会)


  エスペラントとは

 「エスペラントという国際語の名前は昔は聞いたことがあるけど、もう廃れているのではないかという声も聞かれますが、いえいえ もう117年も使われており、インターネット時代の現代では非常に便利なツールになっています。なにしろエスペラントもインターネットも国際的なのですから。
世界で100万人が使っており、ポーランド、バチカン、中国、キューバ,ブラジル、イタリア、オーストラリアなどの放送局からエスペラント放送が流れており、今ではインターネットでも聴くことが出来ます。  また、エスペラントは各国語を大事にして,国際的な意思の疎通に使おうというものですから,誰でもが一から覚える平等な言語です。毎年世界のどこかで世界エスペラント大会が開かれており、日本でも2007年に横浜に招致する運動をしています。各国に連絡者網が整備されているので、これを使うと効率的に色々な調査なども出来ます。今ではメールの使用がこれらにも便利に利用されます。
 エスペラントについては http://www.jei.or.jp/ のページもご覧ください。

和訳「ザメンホフ通り」抜粋

*ウムシュラークプラッツの入り口は、再び出ることはできない地獄の門と
して有名でしたね。*

一旦入ったのに、その門を出ることができたのは、その積換え広場で死んだ人だけでした。私も死体としてその門から出てきたのです。

* え?! それは、どういう意味ですか?*

 ウムシュラークプラッツを、疲れ果てて病気で空腹をかかえた何千人もの人々が毎日通り過ぎていきました。水も不足しているような状況下で、大勢の人がこの広場で死んでいったのです。死体は、すぐにオコポワ通りにある近くのユダヤ人墓地に運ばれていきました。そのために特別の無蓋荷馬車が用意されていたのです。その荷馬車に乗せられて、私は地獄から脱出できたのでした…。つまり,こういうことです。広場へ行ったときに、汽車に乗るのに長時間待たねばならず、私は疲れていて、いまさら別の町へ引っ越せという命令も気に入りませんでした。そのとき、突然ヤン・フレンドゥレル医師が私に近寄ってきました。彼は、私たち家族の友人でした。その若い医師は有無をいわせずに、自分について来るように命じて、ちょうどそこを通りかかった死体運搬用荷馬車の死体の山の上に私を急に押し上げたのです。私は彼の意図を理解できませんでしたが、おとなしくされるがままになっていたのです。その当時は、理解できなくても、従うのが普通のことでした。
* 医師たちは、ウムシュラークプラッツで何をしていたのですか?*

 積換え広場での医療奉仕は、「移住」をカムフラージュする効果がありました。医師たちにはたくさん仕事がありました。私はすでに多くの病人のことを話しましたね。それ以外にも、大勢の人たちの押し合いへしあいのなかで、特に汽車に乗るときに事故がしばしばおきたのです。苦しんでいる人が世話されると、一層移住への期待が深まっていきました。外科医によって折れた足にギプスをつけてもらった人が、新しいギプスをつけたままで、まさか火葬場ヘ直行するなんて誰も思わないでしょう。医者の数が十分ではなかったので、医師は列車にのりこんではいきませんでした。彼らは働きどおしでした。私の母も叔母のゾフィアも医師としてそこで働き、ゾフィアは1942年9月のある日、苦しんでいる患者に付き添って行くために、すすんで移送に加わる決心をしたのです。

* ゾフィアは汽車がどこへ行くのかを知っていたのでしょうか?*

 多分、知らなかったでしょう。

* ヤヌシュ・コルチャックも、孤児たちと一緒に自分がどこへつれていかれるのか知らなかったのでしょうか?*

 わかりません。知っていたか、あるいは他の人にくらべれば、推測できていたかもしれませんね。疑いもない事実は、彼が孤児たちと一緒にトゥレブリンカに行き、ガス室に入ったことです。それ以前に、彼のポーランド人の友人たちが何度か彼をゲットーから連れ出そうとしましたが、彼は孤児たちから離れようとはしませんでした。

* ヤン・フレンドゥレル医師は、なぜあなたを死体の山の上に押し上げたのでしょうか。移送されればどうなるのかを知っていたからですかね。*

 お答えできないのです。あれ以来、彼には会っていません。多分そのときの直感で、逃がしてくれたのではないでしょうか。あるいは、助けることができない人々の間にパニックがおきないように、たとえ秘密を知っていても、それを明かさない人だったのかも知れません。

* あなたは、なぜ積換え広場から逃げる危険を冒したのですか?*

 なぜですって? 今でも、答えることができませんよ。あの瞬間には,考える時間なんて全然なかったのです。自動的に、瞬時に、そう決断しただけでした。数秒あとでしたら、永遠に機会がなかったかもしれません。潜在意識が私にそう決断させたとしか思えません。私は当時17歳で、半日も待ちくたびれて、いらいらしていました。なぜ、知らない土地に越していかねばならないのか? 1キロのマーマレードのために? 私の生活状況は最悪ではありませんでした。私は、どうにか我慢できる環境で暮らせていました。そこは、廃墟になってはいたものの生家にも近く、なんといっても、住み慣れた場所だったのです。

*身の毛もよだつような死体と一緒の旅は、どれほど長く続き、どのようにして終わったのですか?*

 それほど長くはありませんでした。夕刻、荷馬車がユダヤ人墓地に着くと、全ての荷物と一緒に、私も地上に放り出されました。

*その時でも, あなたはまだ死んだふりをしていたのですか*

 いいえ。ナチスは墓地に興味をもっていませんでした。彼らに言わせると、すべての死んだユダヤ人は、もう悪人ではなくなったのです。多分、そのために、オコポワ通りの墓地はゲットーの壁の外にあったのです。特別の埋葬会社の労働者が請け負って、ゲットーや積換え広場からの死体を運び、墓地の門のところで投げ捨てて、後から共同墓地に埋葬していたのです。彼らは仕事に忙しかったので、私が起き上がって、その場から離れても誰も気づきませんでした。

*結局、あなたは積換え広場からだけでなくて、ゲットーからも逃げ出せたのですね。それで、どこへ行きましたか?*

 再びゲットーへ…。オコポワ通りで馬引き軌道車に飛び乗り、司祭館に戻りました。

* ええっー!? なぜですか?!*

 母に会おうとしたのでした。

*なんという皮肉な運命でしょう! 生きている人と一緒にウムシュラークプラッツを去ることは死を意味したのに、死人と一緒だと生を意味するとは! ゲットーに戻って、あなたは再びゲットーからの出口を見つけたのですね。*

 積換え広場から逃げ出しても、自分の命が助かったという自覚はありませんでした。実際には逆で、私は自分の命を危険にさらしたのです。というのは、私は死刑に値する「罪」を犯したからです。私の違法行為によって、母の命も危なくなりました。そのことを、どうしても、母に知らせなければなりませんでした。